安息とは無縁
長い指だ。
キョンは机を挟んだ向かいの定位置にいる、いつも変わらない表情をしたポーカーフェイスの男を見ながらそんな事をぼんやりと思った。
二人の間に置かれた白と黒の鬩ぎ合いを展開している盤は、白の割合が圧倒的に多い。
この手のゲームは大概先手側が有利な筈なのだが、いつも先手を決めるじゃんけんで勝つくせに本戦に行くと弱いと言う勝負強いのか弱いのか良く解らない事この上無いのがこの男だ。
当然、このゲームも白はキョンの駒である。
序盤から危なげも無く終始白優勢で進む正方形の世界を、やんわり見つめながら古泉は手を考えているのか先程から指先で駒を一枚弄んでいる。
何処かの情報処理能力が半端無い対有機生命体コンタクト用ヒュ−マノイド・インターフェース程では無いが、古泉も考えるのはキョンのような一般人より遥かに回転が良い筈だ。
しかし今は珍しく長考している。
キョンはまた何かを思いついたのか何処かを駈けずり回っているのだろう主の帰りを待つ机に視線をやり、いつもの可愛らしいドジをやらかして遅いのだろう天使のような先輩を思い描いて部室の出入り口に視線を移し、それから最後に相変わらず存在を消して壁際で本を読んでいる宇宙人を見やった。
束の間の休息や嵐の前の静けさだろうがとにかく今この瞬間の部室は限りなく、平和だ。だから結局目の前の対戦相手を何とは無しに観察してしまう。
自分より上背のある男は全体的にそつが無い。
女子に騒がれそうなハニーフェイス。
長い手足。
丁寧な物腰はキョンにとてはうっとおしいが、他の人にとっては紳士に見えるだろう。
否、実際に食えない奴ではあるが嫌悪感を丸出しにしてお近づきになりたくない程嫌な奴な訳では無い。
そうならこんなのんびりゲームの相手なんぞしない。
特にキョン自身そこまで自分をコンプレックスに思った事など無いのだが、こんな男が側にいたのではそれなりに劣等感は生まれる。
しかし生まれたからなんだと言われれば別にどうするでもない。
世の中に絶対的な公平が存在しない事は16年も生きていれば身に染みている頃であり、ズボラにする訳では無いが特別エステに行こうだとか果ては整形しようなどと言う考えには至ら無い訳だ。
ぱちり。
キョンが暇が故にくだらない事を考えては逐一打ち消して行く思考に耽り始めた頃、漸く黒がその役割を思い出したかのように置かれて白を裏返して行く。
今度はキョンが手を考える番である。
くだらない事を考えていた脳は動きが緩慢になっていて中々三つある選択肢を一本に絞れずに悩んでいると、ふと視線を感じてキョンは視線を上げた。
そうすると何か煌いている眩しい物体を見るように細められた柔らかな視線に出くわしてしまい、キョンの臓器の一部が急ブレーキをかけたかのように跳ね上がった。
「何だよ」
平常の声より二ミリ程は上ずった声に内心舌打ちしながらキョンは筋違いに古泉を睨んだ。
しかし気付かないのか気にならないのかはたまた気付いてるからこその笑みなのか、古泉は三割増の輝く胡散臭い笑顔で首を傾ける。
そういう仕草はもっと可愛げのある女性にやって貰いたいものだと思いながらもキョンは視線を泳がせた。
「貴方も、見てたでしょう?」
憎らしい程爽やかな声が部室の空気にやんわり混ざった。
「まあ、僕はいつも貴方を観察してますけど。たまには観察されるのも良いかと思って」
「…………じゃあ」
つまり長考はわざとであり、キョンはまんまとその意に乗ってしまったと言う事か。
ばちん、と苛立ちを指先に込めて白を置けば,盤面があっと言う間に真っ白になった。
どうだと言わんばかりに古泉を見れば、その顔は負けを確信してなお変わらずに笑み続けている。
「また負けてしまいましたね」
「少しは悔しそうな顔をしろ」
「すいません。癖なもので」
嫌な癖だと罵ると、古泉は今度は楽しそうに笑ったようにキョンには見えた。
じゃあ普段はどんな笑みかと聞かれれば、答えようも無いのだが。
「こんな話を知ってますか?人間は、本当にどうしょうも無い時は笑ってしまうのだと」
「−その話からするとお前は常にどうしよもないのか」
「そうですよ」
あっさりとした肯定の言葉にキョンの方が重い気分になってしまう。
この超能力者の過去も背景も内部も真実も、キョンは知らず、また知りたいとも思わない。
だけど断片的に垣間見た情報は、この男をこの形にしてしまったのだと知らしめる。
キョンは無主義で無主張な大多数の人間だ。
だけど、この頭でっかちに言える事が一つだけある。
「俺は今しか知らないし、今しか信じない」
過去の出来事は記憶の曖昧さで書き換わるし、未来は常に想像の粋を越えない。
ならば、大事にするのは今だけで良い。
別に刹那的に生きている訳じゃなくても。
盤面は終わりを告げて古泉はその長い指で駒を片付け始める。
その伏せられた瞳が少しだけ怒気、または哀愁を含んでいる気がしてキョンは黙り込んだ。
きっとこの男はキョンが歩んできた16年の薄っぺらい人生より遥かに苦労して苦悩してきたのだろう。
だけど。
だから。
「−キョン君」
「あ?」
「背中を押したのは貴方ですよ。いつだってね」
「はあ?」
何時の間にか差し込んでいた夕日を浴びてオレンジ色をした男は、何を思ったか机越しに身を乗り出し、避ける暇も無く唇をキョンの無防備な額に押し付けてきた。
「な…」
「おかげさまで覚悟が出来ました」
「…んのだよ」
「神に背く覚悟ですよ」
「………」
神が何を指すのかは古泉が向けた視線の先で解った。
そこには役職を馬鹿みたいに主張する札が置かれた今だ埋まらない空席の机があるからだ。
ただ、それと額に残る感触との間の連想ゲームが予測出来ないのだが。
「―――――」
思考をぐるぐるめぐらせていた時、ふと耳元で正しい筈なのに聞きなれない単語が囁かれ、キョンの体は驚くほど朱に染まってしまった。
それは何も夕日のせいだけで無く、まして湿った唇が少し耳の輪郭に触れたからだけではない。
それもこれも周りが皆ふざけた名で呼ぶからだ。
すっかりそれが自分自身に定着してしまったからだ。
だから、こんなにも。
「貴方も覚悟してくださいね」
何とも自分勝手にそう告げてから、古泉は携帯に呼び出されてあっと言う間に挨拶を済ませ部室からいなくなってしまった。
しかしキョンはまだ耳の奥で熱く自分を呼ぶ声に囚われて、動けずにいる。
「覚悟ってなんだよ…」
呟いて頭を振ったキョンの横目にすっかり忘れていた長門の姿が見え、慌てて何となく姿勢を正してしまう。
しかし最初から興味が無いのかキョンが部室に入って来た時からその姿は一ミリも変わっていないように思う。
ただ、こんな時だけはその無関心さがありがたかった。
今のあれこれを突っ込まれてもキョンには答えられない。
−否、答えたくない。
実際の所、そこまでのまなざしを向けられて気付かないほど、キョンは鈍くなかった。
だから困っている。
だから、気付かない振りをした。
出来れば気付きたくなど無い。
答えも応えもリアクションする気は無い。
否定を重ねたり、こんな事を考えてるあたりでもう手遅れだと言うことにも、気付かない振りをする。
「…俺ってつくづく矢面に立たされているような…いやいや……」
それすらも否定してキョンは究極にはた迷惑な団長様が帰ってくるまで不貞寝する事に決め込んだ。
今は考えたくない。
まだ何も要求されてはいないのだから。
結局この後も額の感触と声の残響に悩まされていたキョンに、安息という言葉は無縁なのかも知れない。
終
.